Clear Consideration(大学職員の教育分析)

大学職員が大学教育、高等教育政策について自身の視点で分析します

米国大学の財政危機に関する考察

high190です。
今日は米国の大学財政危機に関する考察を紹介します。

フランスの月刊誌、「Le Monde Diplomatique」の日本語版からの引用です。

(上記記事より一部抜粋)

支払能力のある学生を引き付けるための競争を繰り広げる大学は、社会の分断を深めているだけである。貧しい学生はほとんど常に、施設の整っていない大学にしか行けない。しかも、教育費用の借金が増えており、アメリカの全世帯の4分の3が子供の学費のために借金を余儀なくされている。

この傾向は日本においても同様のことが言えると思います。日本の私立大学における学費は年々上がり続ける一方で、負担は増える一方です。

また、大学は金を払ってくれる顧客でもある学生の目を引くために、マーケティングや施設の整備など、教育以外の部門の予算を増やすようになった。1975年から95年にかけて授業料と寮費は4倍になったにもかかわらず、大学が学生にかける費用は一人当たり32%増えたにすぎない(9)。子供を公立大学に通わせるための家計負担が増えるにつれて、公教育を支えるために税金を払おうという意欲は削がれてきた。戦後まもなく交わされた社会契約はずたずたになっている。多くの人に高等教育の門戸を開くという考え方と、質の高い教育を提供するという考え方は、相容れないもののように受け止められている。

大学において先進的な設備等が必要になることは分かりますが、学生一人あたりのサービス低下という部分は見過ごせません。日本の大学においても学費を値上げした後で、学生サービスは向上するのでしょうか。「施設面での拡充でサービスは向上している」という声が聞こえてきそうですが、根本は何も変わっていませんし、負担が増えたことも「競争の激化」を理由に黙殺されています。

アメリカの大学制度の強みとなっていたのは、知識を得る機会を万人のものにしようと望み、自主的な運営を行い、公的な投資に高い価値を認め、社会運動に理解を示し、最先端の研究と公的な教育をつなぐ架け橋となるような、大学のあり方だった。それが今日では、富裕層だけが質の高い教育を受けられ、すぐに収益を上げられるプロジェクトに優先的に資金が回され、社会層の分断が際立ち、途方もない出費を必要とする競争が激化し、上位校だけに資金が集中するというように、大学機関の弱点ばかりが目に映る。大学のこのような全般的な変化は、社会全体にハイレベルの教育を提供するという野心的な試みの断念を追認したものでしかなく、アメリカの右派にとって紛れもない勝利である。打開策は、知識の利用についての平等主義的な考え方を改めて作り上げることにこそある。そうした方向に行くかどうかは、大学自体ではなく、アメリカ社会全体の選択にかかっている。

アメリカの大学制度について、このような批判がされている訳ですが、日本においてはどうでしょうか。私にはこの批判が他人事には思えず、同じ現象は日本でも起こっていると考えます。