high190です。
2026年3月16日、同志社国際高等学校における研修旅行中の重大な事故が発生し、同校の生徒1名が死亡する痛ましい事案が発生してしまいました。このことについて、文部科学省は4月24日に高等教育局私学部参事官を学校法人同志社に派遣するなど、調査を実施し、本件が教育基本法第14条第2項の違反であり、是正を図る必要があるとの解釈を示しました。現在も各メディアにおいても解釈の妥当性等について、引き続き議論等がなされているところです。
- 現時点で把握した情報からは、辺野古への移設工事に関する学習について、政治的活動を禁じる教育基本法第14条第2項に反するものであったと考えられ、是正を図る必要がある。
- 教育基本法反対及び辺野古の米軍新基地建設反対を宣教基本方策に掲げる日本基督教団京都教区のホームページ上で、関連諸団体として、同志社国際中学・高等学校が位置付けられていること
第1 高等学校等における政治的教養の教育
教育基本法第14条第1項には「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」とある。このことは、国家・社会の形成者として必要な資質を養うことを目標とする学校教育においては、当然要請されていることであり、日本国憲法の下における議会制民主主義など民主主義を尊重し、推進しようとする国民を育成するに当たって欠くことのできないものであること。
また、この高等学校等における政治的教養の教育を行うに当たっては、教育基本法第14条第2項において、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」は禁止されていることに留意することが必要であること。
(政治教育)
第14条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
上記が現行法の規定です。しかしながら、そもそもの話として教育基本法について、教育現場、特に事務職員が触れる機会は少ないと思われます。そして学校教育法違反については認証評価等で指摘がなされることがありますが、教育基本法の違反というのは法制定後、初の事例であり、その点も含めて教育基本法の制定過程、特に政治教育についての規定がどのように定められたのかを知ることには一定の意義があると思います。
私自身の理解を深めることを目的として、教育基本法はどのような制定過程を経て制定されたのかを本ブログでは見ていきたいと思います。なお、同法律は平成18年に全面改正されていますが、ここでは昭和22年の制定時の内容を検討します。資料として国立教育政策研究所の戦後教育資料デジタルアーカイブ、名古屋大学大学院法学研究科「日本研究のための歴史情報 法令データベース」等を用います。
まず前提情報として、教育基本法は昭和22年3月31日法律第25号として公布され、現在の法律は平成18年12月22日法律第120号として全面改正され、現在に至っています。
第八條(政治教育) 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
(政治教育)
第14条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
条の入れ替わりや若干の字句修正等は行われているものの、政治教育に関しては昭和22年制定法の規定から変化がないことが分かります。
上記の資料は、教育基本法に関係して各国の教育状況が調査された結果で、文部省調査局調査課長名の「国会説明資料」との記載があります。このうち政治教育に関しては、1.公民教育に関する調査((1)米英を中心として見たる公民教育、(2)本邦における公民教育)、2.教育と政治(教育制度の調査)が行われていたことが分かります。「教育と政治」については勝田昌二氏(後に横浜国立大学教授、1947年文部省調査局調査課嘱託、1948年文部事務官)がレポートしてまとめていますので、以下に抜粋します(手書き文字なので判読誤りによる誤記載があり得ることを御了承ください。資料中取り消し線が引かれたものは除外しています)。
1.政治教育の意義
1.一般に民主主義国家にあっては政党的意見を学校教育に導入することを許さない何らかの規定もしくは動かし難い伝統がある。即ち特定の主義主張を学校において教育することは被教育者の自由な思想発展にとって極めて危険であると言わねばならぬ。学校における政治教育は被教育者をしてなんらかの世界観あるいは政治的理想及思想を選び得る能力を育て上げることが主眼であらねばならぬ。いずれの国においても教育は多かれ少なかれ政治的な偏りをこわしている。これは自国の優秀性についての教育、あるいは愛国的な教育の表れである。この傾向が国際主義的なもの、他国との相互理解の教育との割合がどんなになっているかという点にその国が民主主義的であるか、又は全体主義であるかの問題が含まれている。
社会における政治と、社会人としての基本的公民教育は無論必要であり実施されているが、政党的政治色が強く反映されている場合があるもの許されるべきであろう。2.米国における政治教育
1.学校における政治教育は立憲政体の下に政治的知識を授け優秀な選挙民を養成する目的をもって、公民科教育として行われてきたが、1929年の世界経済恐慌以来公民科教育には従来の政治教育に加えて、社会経済的教育がはいった。さらに近年になって公民科中に歴史、地理を包含して総合的社会科(インテグレート・ソーシャル・スタディズ)として教育をするようになった。政治教育に政党的意見を加えることは強く反対されているが、政治への理解、愛国心、国および社会への奉仕等について生徒の心に教え込むようにしている。米国の政治教育の特徴と考えられるのは生徒をしてきわめて能動的な自治的な社会人に養成することであって、或る学校に於いては学校全体を一つの自治体として、例えば全校を一国、クラスを1州の如く組織して、生徒によって、生徒のために、生徒の管理を行なっているのもある。
2.社会においては、中等および高等の諸種の成人教育学校、講習会、通信教授等の方法により公民教育として政治教育を実施している。
3.宗教団体、職能団体、労働組合等によってもクラブ、集会、労働者大学等によって政治教育を行っている。3.英国における政治教育
1.英国においては、之に反して政治の知識を授業することは、全然重要視されていない。之は人間の知的、道徳的、身体的な適当な行使、発達が国民普通教育の目標であり、教室における諸学科、教室自体、スポーツ、運動場、寄宿舎、ボーイスカウト、教会、過程等のあらゆる機会に社会的人格完成の教育が興えられているからである。であるから、中等学校、初頭学校においては特に政治的知識を他の科目より分離して興えられる公民科を設置していない。
2.補習学校においては学校生活の経験なき人々のために「公民科」「常識科」」等の名称の下に市民生活に必要な立憲思想の教育を行っている。
3.社会、職能諸団体、宗教団体及び労働組合等による政治教育は大体米国に似ている。4.ソ連邦
1.ソ連邦においては学校教育のすべての学科がマルクス-エンゲリス-レーニン-スターリンの共産党の指導精神によって、理解され、教育されているのであって、すなわち全教科が政治教育といえるのであり、特に政治教育としての中等学校以上におけるソ連邦憲法講義以外には行われていない。
しかし就学前児童教育を含み、オクチャブリャータ(十月革命の子)、ピオネール、コムソモール(共産青年団)等の共産党への準備教育組織によって、日常生活を通して共産党精神により完全に教育される。特に各組織の党指導者となるもののために共産党大学があり特別に社会の幹部層候補者としての政治教育が行われている。
2.社会における政治教育は文盲又は半文盲撲滅運動として各民族の母国語教育と平行して強力に行われている。
各種出版物、クラブ図書館、映画、劇場、集会、赤い鳩等のすべての啓蒙期間は党精神に充満しているのであって、それは政治教育というよりはむしろ常識であると言い得るであろう。この点において他の民主主義国の人々は、ソ連邦には自由がなく、全体主義的であると批判するのである。
上記のような資料を準備して国会での説明資料としていたようです。他国との比較も含め、文部省調査課の担当者が調べた資料の内容等に圧倒されながら読んでいました。何分、歴史資料から教育基本法の制定過程を読み解くのは難しいところもあり、ここからは先行研究から教育基本法の制定過程を見ていくことにします。
抄録
教育基本法の成立ということについて、通説は、当時の文相、田中耕太郎の発意と熱意からこれを説明している。が、彼の教育改革案には、もともと国民教育の倫理化と教育権独立の憲法的保障という二つの力点があった。教育目的の法規化に否定的なそのような構想から教育基本法の着想が自動的に生まれるかどうかは一つの問題であろう。ところで、教育基本法成立史の研究は、戦後教育改革資料の調査研究の飛躍的発展によって新しい段階に立ち至っており、田中(耕)に加えて、二人の人物に注目を要することが判明している。一人は、被占領期教育改革立法の立案を担っていた文部省の審議室参事事務取扱、田中二郎で、もう一人は、教育政策の策定に重大な影響力のあった、教育刷新委員会の副委員長、南原繁である。そこで、教育基本法の成立を説く鍵は、どの点に見いだしうるか。第一に、教育基本法立案の起点は、1946年9月11日の文部省省議にあった。教育基本法の構想は、事実上この会議において、法律専門家である田中二郎が発案したものである。教育刷新委員会第一特別委員会の審議過程や審議室・CI&E教育課の協議過程の原案になったのも、彼の1946年9月21日付教育基本法要綱案であった。教育基本法に異例の前文を付す構想も彼のアイデアである。田中(耕)文相は、こうした構想を支持しそれを国策として確定することに重要な役割を演じたのである。第二に重要なのは、南原繁もまた教育基本法の立案に少なからず影響を及ぼしていることである。教育及び文化の問題についての、8月27日の貴族院における彼の質問演説には注意を払うべきだろう。彼は田中(耕)文相の教育立法政策と教育権独立論を批判し、新憲法に教育の根本方針を規定するよう要求するとともに、教育の国民との直結性と政治教育の重要性を説いていた。さらに教育刷新委員会が教育基本法制定方針の大綱を採択したのは、第一特別委員会報告に対する南原の厳しい批判に負うところが大きい。その際、彼は教育の目的は人間性の開発ではなく、あくまで人格の完成でなければならないと力説し、倫理教育において宗教にまで飛躍することに反対した。このような彼の思想は、結果として教育基本法成文のいくつかの条項に生きたのである。今後は、こうした諸点を熟慮して、教育基本法の成立の歴史的意義と限界を読み取っていかなければならない。
以下、本文からの抜粋
田中(耕)は(中略)「教育を政治より分離し、教育制度を政党政派の対立及び勢力関係の影響外に置くこと-此の為めに教育に憲法上司法権を与へられたる独立の地位を保障する取扱を為すこと」という原則を直截に明記している。別言すれば、戦後をスタートした直後の田中(耕)の思想を教育権独立の憲法条規による保障論こそが、その論法の中核を成す問題であった。
(中略)
1945(昭和20)年10月15日学校教育局長として文部省入りした田中耕太郎は(中略)「教育改革私見」の構想を敷衍して、「教育の目的は人格の完成及び個性の健全なる発達に置かれる。人格の観念が倫理的性質を有し、また個性の発達の意味が決して個人的放恣の発揮を意味するものではなく、人格及び個性ともに人間が社会的動物である事実の承認を前提とするものなることは注意を要する点である」と論じるとともに、「われわれは教育に政治から独立した地位を与へ、憲法の条規をもって教育権の独立を保障する必要を感ずるのである。と断じていた。
(中略)
田中二郎教育関係文書には、「教育法関係」と「教育行政制度」の立案計画を期した注目の文書が見出される。(中略)これは9月11日の省議用に作成された文書推定して誤りなく、注目はその内容である。大臣官房文書課の起案に成るとみられるこの文書は、「教育法関係」で①「第一案 応急的措置として現行関係勅令の法令化即ち憲法抵触部分の改廃のみを行ひ」「但し教育根本法は同時制定すること」、②「第二案 学校教育法を制定するも暫定的措置として学制問題のみは一応現行のままにしてをくこと」、③「第三案 完備した学校教育法を制定すること」という三つの案を提示している。(中略)教育基本法立案作業の起点が昭和21年9月11日の省議にあったのは確実である。(中略)9月11日省議用文書の孔子た存在態様を通じて浮かび上がってくるのは、当代第一線の行政法学者、田中二郎が文部省内で実際に担っていた部署である。田中(二)文書に収められた教育改革立法関係諸資料は、彼が、教育基本法だけでなく昭和21年7月から8月にかけての学校教育法立案作業や地方教育行政改革案作成作業、22年9月ごろまでの地方教育行政法案・地方教育委員会法案や教員身分法案の立案作業等にも深く関与し、被占領期の教育改革立法体系かに決定的な役割を演じていたことを証示してあまりある。(中略)田中二郎と審議室(注:大臣官房審議室)のスタッフは、9月11日省議の結論をうけて直ちに「教育根本法」の立案作業に着手し、「教育(基本)法要項案」を作成している(中略)。現在までに発見されたなかでは、これが教育基本法の最初の草案であるが、「教育根本法」を「教育(基本)法」というタームに置き換えているのが目を引く。
(中略)
教育基本法の成立と南原繁(中略)第一に、第90回帝国議会貴族院本会議における質問演説(昭和21.8.27)はことのほか重要である。(中略)①田中(耕)の教育権独立論を一種の教階制度(ハイアラーキー)、文教官僚主義に陥る恐れあるものとして批判して、「要スルに国民一般カラ分離スルコトニ依ツテ教育ノ権威ヲ確立スルトイウノデナクシテ、国民ニ直結シテ、国民ノ自覚ト、其ノ手ニ依ツテ教育進歩ヲ図ルト云フコトガ眼目デナケレバナラヌ」と重要な論題を出している。また②「凡ソ教育理念ハ真理トカ正義トカ云フ単ナル抽象性ニ止ツテ居ラナイ限リハ、必ズヤ其ノ時代ノ政治的、社会的精神ト分離シテ考エルコトノデキナイモノデア」ると言い、「是ガ具体的内容ハ、必ズヤ国民ノ左様ナ政治的、社会的現実生活カラ生ジテクルモノデア」ると確言して、新憲法が国民全てを把握し得るような世界観、政治観を作る必要性と公衆の政治教育の重要性を指摘したのだった。
(中略)
本稿が検討してきた教育基本法成立史再考の視点、要するに田中耕太郎の果たした役割を相対化し、田中二郎の立法技術的な構想力の独自の地位を浮かび上がらせ、南原繁の教育政治的影響力を田中(耕)との関係で重要視する見地は、先の疑問に答える最初の関門であろう。教育基本法構想の誕生を田中二郎の教育改革立法政策論の展開のなかに見出し、各立案ルートにおける田中(耕)と南原の教育立法思想的な影響の跡を対比的にたどりながら、諸機関間のーそしてその中で苦闘した人々のー政治力学的な緊張感系の中で教育基本法の成立を捉えることによって何がみえてくるか。教育基本法成立の歴史的意義と限界を同時代的かつ現代的な眼でリアルに読み取り、わが国教育の機構と機能の未来に活かす学問的格闘があらためて求められているように思われる。
以上、史料的な検討は少ないですが、教育基本法の制定過程と政治教育についての規定がどのように定められていったのかを明らかにしようする試みでした。なお、文部科学省のWEBサイトにも制定時の経緯等に関する資料が置かれているので、併せて紹介します。
最後に、今回の同志社国際高等学校の事故は改めて、教育現場に勤める教職員に対して重大な課題を提示していると思います。
学校教育において最も重視されるべきは園児、児童、生徒及び学生の生命財産の確保とその保護であり、学校は機関としてその安全を確保し、現行の学校教育法第1条に定められる「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」という目的を実現しなければならないという、当たり前ですが、日々の多忙等で見落としがちな視点です。
特に大学教育は青年期教育であり、成人となった人が教育の対象ではありますが、安全確保面での配慮は当然に必要ですし、中等教育以下の学校種においてはその責任はさらに大きいと言わざるを得ません。学校に勤めるすべての人が今回の事故を教訓としつつ、二度とこのような事故を起こしてはならない教訓を与えていると考えます。
【追記】本件について、過去の記事等も探していたところ、武蔵野大学教授の貝塚茂樹先生が2016年に書かれていた記事が参考になると思いますので、追記します。
www.sankei.com
「18歳選挙権」の実施に向け高校では新学期から本格的な主権者教育が開始される。しかしその先行きは不安だ。特に「政治的中立性」の問題である。
教育の目的は人格の完成とともに、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」(教育基本法第1条)を育成することだ。そのため国家社会の形成者として正しく権利を行使し、義務を遂行し、良識にかなった活動ができる政治的教養が不可欠となる。しかし現実の政治問題ではさまざまな思想や主義や利害関係が錯綜(さくそう)し、政党の意見には対立が生じる。だからこそ学校は「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」(同法第14条)と規定され、「政治的中立性」が課題となる。
学校教育の使命は将来の国家社会の形成者として、いずれの政党の政策を選択すべきかを主体的に判断できる資質・能力を育成することである。学校は特定の政党の教育機関とならないことで政党党派の上に超然たる地位と使命を有するのである。
また、授業では教員が、政治的な課題について、個人的な見解を積極的に提示すべきだという意見もある。しかし、特別な場合を除いてその必要はない。主権者教育では、現実の課題について、生徒自身が多面的・多角的に考えることが重要である。ここで重視されるべきは、さまざまな議論を交わすことで合意形成を図ろうとする努力と姿勢であり、問題を解決しようとする過程である。ここでの教員の役目は、考え、議論するための資料を幅広い視点から提供し、中立かつ公正な指導をすることである。むしろ、教員が個人の見解を示すことは主権者教育において弊害となるはずである。
なぜか。教師と生徒とは基本的に権力関係にあり、教員の具体的な発言は本来的に「権力性」を持つからである。この「権力性」こそが「政治的中立性」を必要とする理由でもある。
教員はこの「権力性」を自覚し、自らの見解をまずは括弧に括(くく)りながら生徒の政治的教養を育成することが必要だ。それこそが教員の「専門性」でもある。教員の安易な見解の提示が、「押し付け」となり政治的教養の育成を妨げる危険性に教員はもっと謙虚となるべきだ。「権力性」は、たやすく「暴力性」へと変質するからである。
